第二部・夏のペンタグラム




 何だかんだと言っている内に正月休みも過ぎて行き、今日は1月5日。

 ミサトは食事もそこそこに、朝早くから明日の準備のためIBO本部にやって来て、技術部スタッフの最終調整作業を見守っていた。

(いよいよ明日からか……。新しい一歩なのね……)

 とは言うものの、最終調整完了の確認が出来る状態になるまでは、総務部長のミサトとしては特に何もする事がない。

 マヤ、日向、青葉の三人が調整作業の陣頭指揮に立っているのを暫く見ていたが、とにかく総務部に戻って待とうとした時、はたと気付いた。

(あ、そうだわ。シンちゃんとアスカ以外は確認が取れていない子もいるんだ。うっかりしてたわ……。最終確認の電話をしておいた方がよさそうね)

 大丈夫だろうとは思うが、念には念を入れた方がいい。そう思ったミサトは総務部に急いだ。

(……それに相田君と洞木さんの件もちゃんと連絡してなかったな……)

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第二十七話・拈華微笑

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(……じゃ、八雲さんからにしようか……)

 ミサトは名簿を見ながら電話番号を押した。

『はい、八雲です♪』

「あ、おはよう、葛城です」

『あ、部長、おはようございまーす♪』

「八雲さん、明日は9時からだけど、大丈夫よね」

『はい、だいじょうぶですよ♪』

「うん、どうもありがと。実はさ、言い忘れてたんだけど、臨時スタッフとして、相田君と洞木さんにも手伝ってもらうことになってるの」

『えっ? そうなんですかあ。ちっとも知りませんでしたよ』

「うん、洞木さんは年末に決まったばかりだから当然なんだけど、多分相田君は自分から直接言うのは控えてたんだと思うのよ。連絡が遅れてごめんなさいね」

『いえいえ、わざわざありがとうございまーす♪ じゃ、明日かならず行きますから♪』

「うん、じゃ、よろしくね。……さて、と、次はレイか。……あーあ、情けないなあ、1日に来た時にちゃんと言っときゃいいのにさ。……わたしも忘れっぽいわよねえ……」

 ミサトは自嘲の笑いを浮かべながらレイの電話番号を押した。

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 さてこちらはシンジとアスカ。

 2日に本部に行った他は、特に何をすると言う事もなく、二人ともダラダラと過ごしていた。

 今日はミサトは本部へ行ってしまったし、シンジとアスカは朝食の後、いつも通りにリビングでボケッとしているだけだった。

「ねえシンジ、学校は8日からだけどさあ、あしたから本部で実験がはじまるから、のんびりできるのはきょうだけよねえ……」

「そうだねえ。今日はどうしようかなあ……」

 その時、シンジにしては珍しく、ふと「ある考え」が心に浮かんだ。

「……ねえアスカ」

「なに?」

「僕らさ、……一応、つきあってんだよね……」

「えっ? なによ急に」

「いやそのさ、考えてみたら、僕ら、二人っきりで、デートした、なんて事、なかったろ……」

「えっ?! ……う、うん……」

「遊園地に行ったり、教会に行ったりしただけだったよね」

「……そうよね……」

「だからさ、たまには二人っきりで、デート、なんて、どうかな、……なんて、思ってさ……」

「へえ……、シンジ……。うれしいな……」

 ややおずおずとした言い方ではあったが、「およそシンジらしくない提案を述べるシンジ」に、アスカは驚きながらも、心の中の喜びを隠せなかった。

「……で、どこ行くの?」

「うん、……デートコース、って、よくわからないけど、喫茶店でお茶飲んでさ、それから映画見てさ、……あとは、どこか公園でも行ったらどうかな、なんて、思ってんだけど。……ありきたりでごめんね」

「ううん、そんなことないわよ。……いいじゃない♪ ……じゃ、きがえようか」

「うん」

 シンジの「思いがけない提案」のせいか、珍しくアスカも神妙であった。やはりこのあたり、「普通の女の子」と言う事なのだろう。

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「……そう言うことなの。ごめんねレイ、連絡が遅れちゃってさ」

『いえそんな、わざわざどうもありがとうございます。それに相田くんのことは、話としてはちょっと聞いてましたし……』

「どっちにしても悪かったわ。私もお正月でうかれちゃってさ、仕事のことちゃんと覚えてなかったのよね。ま、これから気をつけるからさ。じゃ、明日お願いね」

『はい、じゃ明日』

「……さて、と、次は渚君ね」

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 ミサトは次々と電話をかけていた。最後はトウジの所である。

「……と、言うわけなの。相田君と洞木さんの件の連絡が遅れてごめんなさいね」

『そうやったんですか。ま、休みに入ってから決まったんでしたら当然ですわ。わざわざ連絡してもろてすんまへん』

「じゃ、明日よろしくね」

『了解致しましたっ! ほな明日!』

「はいはい、じゃあね♪ ……あーあ、やっと終わったか……」

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 一足先に着替えを済ませたシンジはリビングでアスカを待っていた。今日のシンジは、学生服姿ではなく、ライトブルーのシャツにスラックスと言ういでたちである。

「おまたせ♪」

 部屋から出て来たアスカは、あの「オレンジ色のワンピース」姿だった。無論胸元にはあの「真珠のペンダント」も光っている。

「うん、……とってもよくにあってるよ」

「うふふ、ありがと♪」

「じゃ、行こうか」

「うん♪」

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 さてこちらは松代の例の会社の社長宅である。明日はドイツからの「客」を迎えると言う事もあり、社長も少々緊張している。

トゥルルル トゥルルル トゥルルル

「……もしもし」

『私だ』

「あ、これはどうも。明日はよろしくお願い致します」

『うむ、急で悪いが、例の二人の件だ』

「は、何でしょうか?」

『そっちに着いてから指示を出そうかと考えていたが、少々思い付いた事がある。今からすぐにあの二人を連れ出せ』

「はっ、了解致しました。ですが、今からですと、上手く行ってもそちらの御到着にギリギリ間に合うかどうか、と言った所になるか、と思いますが」

『それは構わん。時間的な事で制約する積もりはない。今から実行すればそれでいい』

「了解致しました」

『以上だ』

「……さて、と」

 ドイツからの電話を切った後、社長は再び受話器を手にした。無論電話をかける先は、あの「リーダー格」の男の所である。

『はい』

「わしだ」

『あ、社長。どうも』

「ドイツから指示が来た。今から行って例の二人をここに連れて来い」

『えっ!? 今からですか?』

「そうだ。ゴチャゴチャ言わずにすぐやれ」

『は、はい。了解しました』

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 さてこちらはカヲル。

(……綾波さん……)

 カヲルも、元日にミサトのマンションから帰って来た後は、特に何をすると言う事もなく、本を読んだりテレビを見たりしながら過ごしていた。しかしながら、一人で部屋にいると、シンジの事や実験の事なども考えないではなかったが、時折妙にレイの事を思い出してしまうのである。特に、今朝ミサトから改めて連絡を受け、明日またレイに会うのだ、と考えていたら、ハイキングに行った時のレイの笑顔が妙に心に浮かんで来てしまった。

「……よし」

 カヲルは意を決すると電話の所に行って受話器を手にした。

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 さてこちらはレイ。

 レイも特に何をすると言う事もなく、一人で部屋に篭っていた。

トゥルルル トゥルルル トゥルルル

「……はい、綾波です」

『あ、……渚です』

「あら、こんにちわ」
(渚くん!……)

『あの、急で悪いけど、もしよかったら、これからお会い出来ないかな?』

「えっ!?」

『……いやその、別に大した用事はないんだけど、ちょっとお話出来たら、と思って』

「……は、はい。……いいですけど」

『じゃ、今9時だから、9時半に、いつもの別れ道の所でいいかな?』

「はい。じゃ、それで」

『どうもありがとう。じゃ、よろしくね』

「はい」

 電話の後、意外なカヲルの申し出に驚きながらも、レイはそっとタンスに歩み寄って水色のワンピースを取り出した。

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 さてこちらはケンスケ。

(……明日、八雲ちゃんに会えるんだな……)

 ケンスケも今朝一番にミサトから連絡を受け、明日からの実験に思いを馳せていた。しかしながら、そうなるとどうしてもナツミの事を考えてしまう。

(……明日は堂々と会えるけど、みんなと一緒なんだよな……)

 何とかナツミと少しでも「お近づき」になりたいと言う気持ちはやはり否定出来ない。

「……よおし、思い切ってやってみるかあ!」

 ケンスケは蛮勇を振るって受話器に手をかけた。

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 さてこちらはナツミ。

 ナツミも2日にミサトのマンションから帰って来た後は、特に何もせず毎日を過ごしていた。考えて見れば、ナツミはこちらにやって来てからそれほど日が経っていないのだから、そうそう外に出歩く事がないのも当然である。

トゥルルル トゥルルル トゥルルル

「あ、電話だ。………はい、八雲です♪」

『あ、相田ですけど』

「あ、相田さん♪ こんにちはー♪ あ、今年はじめてでしたねー。あけましておめでとうございまーす♪」

『あ、あけましておめでとう。……どう、調子は?』

「はーい、元気ですよ♪」

『あ、そうなの、あはは。八雲ちゃんどうしてるかなー、なんて、思っちゃってさ。あはは』

「あ、そうなんですかあ。どうもですう♪ えへへ、なにもすることないから、本を読んだりテレビ見たりしてますよお♪ あ、葛城部長から聞きましたよ。相田さんもスタッフになったんですねえ♪」

『あ、聞いてくれたの。あはは、あ、俺の方からちゃんと言わなくてごめんね。なんとなく、ミサトさん、いや、葛城部長から正式な発表があるまでは言わないほうがいいかな、って気もしちゃってさ、あはは』

「あ、やっぱりそうだったんですかあ♪ 部長もそうじゃないかな、っておっしゃってましたよお♪」

『え? ミサトさん、いや、部長がそんなこと言ってたの?』

「はーい♪ そうですよ♪ あ、そうだ。明日から実験ですから、がんばりましょうねえ♪」

『あ、そうだね。がんばろうね。あはは。……ところでさ、明日から実験だから、のんびりできるのは今日までじゃない。だからさ、もしよかったら、一緒に写真でも撮りに行かないかな、なーんて、思っちゃってさ、あはは』

「あ、いいですねえ♪ じゃ、みんなをさそっていっしょに行きましょうよ♪」

『あ、そ、それがさ、さっき電話したら、シンジもアスカも渚君も綾波もみんな出かけちゃってるみたいなんだ。だからさ、もしよかったら二人で行けないかな』

「あ、そうなんですかあ♪ じゃ、わたしと二人だけなんですねえ。なんかもうしわけないですねえ♪」

『いやっ、そんなことないよ。八雲ちゃんと二人で行けるなんて光栄だよ。あはは、……いいかな?』

「ええ、いいですよお♪ じゃ、今からしたくしますけど、どこ行きますかあ♪」

『じゃさ、とにかく駅の改札口で、ええと、今9時半前だから、10時半でいいかな』

「はーい♪ じゃ、10時半に駅の改札口ですねえ♪」

『うん。じゃ、よろしくね』

「はーい♪ ……ふんふんふんふん♪」

 電話を切った後、ナツミは鼻歌混じりに支度を始めた。

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「やったぜいっ!♪ おおっ、うれしいいっ!♪ ……あ、まずいっ!」

 狂気乱舞していたケンスケはその時はたと気付いた。シンジ達に連絡したが留守だった、と言うのは無論咄嗟についたウソである。

「そうだ! シンジに連絡しておかないと!」

 フェアなやり方ではないが、シンジに頼んで口裏を合わせてもらわないと拙い事になる。ケンスケは慌てて受話器を手にした。

『プルルル プルルル プルルル プルルル…………』

「……出ない。……シンジとアスカは留守か……」

 ケンスケとしては、シンジに頼んでレイとカヲルに連絡して貰おうと考えていたのである。幾らクラスメイトとは言え、レイには少々電話しにくいし、増してやカヲルにこんな事を直接頼むのは気が引ける。

「仕方ないな……」

 やむを得ずケンスケは机の中からクラスの「緊急連絡表」を引っ張り出すとレイの家の電話番号を押した。

「……こっちも留守みたいだな……。ええい、こうなったら、渚にも電話しちゃえ……」

 しかしこちらも呼び出し音が鳴るだけであった。

「……これって、ツイてるのかな……。あ、それに、ミサトさんが八雲ちゃんに言った、って話もそうだよな……」

 咄嗟についたウソが本当になってしまった。更に、今までナツミにテンポラリスタッフ採用の件を自分から言わなかったのは、単に下心を見抜かれたくないためだけの事であったのだが、ミサトがナツミに言った言葉と自分の「口から出任せ」がたまたま一致していたらしい。ケンスケは少々拍子抜けした顔で電話を切った。

「そうだよ! これってラッキーなんだ! おおっ! 俺にもツキが回って来たかっ!!」

 取り敢えずこれなら口裏を合わせて貰う必要はない。それに気付いたケンスケは多少良心の呵責を感じながらも、嬉々として支度を始めた。

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 シンジとアスカは「喫茶・再会」でコーヒーを前にして向かい合っていた。こうして二人で喫茶店に来るのは初めてだ。二人とも「デート向きの身なり」をしているから、どこから見てもお似合いのカップルである。しかし、無理からぬ事とは言え、シンジは妙に緊張しているようで、会話も乏しい。

(……あーあ、シンジったら、緊張しちゃって、お子さまねえ……。でも、ま、いっか……。うふふ)

 アスカにして見れば、シンジが「男らしく堂々と」リードしてくれないのは少々不満である。しかしながら、同世代の男の子なんてこんなもんだ、と言う事が彼女にも判って来たので、その不満も「苦笑」の中に収めていた。

「……ねえアスカ、僕ら、前に四人でここに来てたんだよね」

「うん、そうよね」

「こうやって来てみてさ、思い出す?」

「うーん、……思い出すような出さないような……。でもさ、よくかんがえてみたらさ、あたしたち、その前にこのお店にきたことあった?」

「いや、なかったと思うよ」

「でしょ。なのに、なんとなくこのお店の中のこと、おぼえてる気がしない?」

「あ、そういわれてみるとそうだね」

「でしょ。だから、やっぱりそうなのよ」

「そうか。……なんかふしぎだな……。でもさ、こうやってアスカと二人で来たのは初めてだろ。そう思うとさ、なんとなくロマンチックな気がするよ……」

「へえー、シンジが、ロマンチック、なんて言うなんて、意外だな♪」

「いやそのさ、……なんかちょっとふしぎな思い出のある店にさ、アスカと二人でいるんだ、なんて考えたら、なんとなくそんな気になっちゃって……」

「そっか、……そうかもね♪ ……うふふ」

「……でもさ、話は変わるけどさ、アスカって、その服着ると、……とってもきれいだね……」

「あらそう。じゃ、いつもはきれいじゃないのかな♪」

「えっ?! いや、そんなことないよ。……いつもきれいだけど、なんか、今日はとくにきれいだよ」

「うふふ、シンジったら♪ ……ありがと♪」

「……じゃ、そろそろ映画に行こうか」

「うん♪」

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 シャツにスラックスと言ういでたちのカヲルが待ち合わせの場所にやって来ると、既に水色のワンピースを着たレイが待っていた。

「あ、綾波さん。ごめんね待たせて」

「いえ、今来たばかりだから……」

「とりあえず、喫茶店にでも行こうか」

「はい」

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 カヲルとレイは、「喫茶・再会」で向かい合っていた。シンジとアスカはその少し前に店を出ていたので、顔を合わす事はなかった。

「この店、前に四人で来たんだよね」

「ええ……」

「……なんだか悪いね。……無理に誘っちゃって……」

「いえそんな……」

「……なんとなくさ、綾波さんに会いたくなっちゃって……」

「そうなの……。そう言ってもらえるとうれしいわ……」

「えっ? そ、そうかい……。どうも……」

「いえその……、わたし、男の人と二人で喫茶店に来るなんて、初めてなの……」

「そうなの……。僕も女の人と二人で来るのは初めてなんだ……」

 なにしろ「この二人」である。会話がぎこちなくなるのも無理はない。二人とも何を話していいのか判らないまま、少し俯いてコーヒーカップを口に運ぶだけだった。

 +  +  +  +  +

「あ、相田さあん♪ こっちこっちー♪」

 駅の改札口では既にジーンズ姿のナツミが待っていた。こちらもジーンズ姿のケンスケは慌ててナツミの所に駆け寄った。

「八雲ちゃん、悪い悪い、待たせたかな」

「いえいえ、今来たところですよー♪」

「そうかあ、よかった」

「はーい♪ 今日も芦ノ湖ですかあ♪」

「うーん、そうだねえ。……どうせだから、芦ノ湖のあたりで、この前行ったところとは違う場所にしようよ」

「あ、いいですねえ♪」

「じゃ、行こうか」

「はーい♪」

(なんか、うしろめたいよなあ……。だましたみたいで……。でも、その分きっとうめあわせするからさ、カンベンしてよね……)

 相変わらずナツミは天真爛漫である。ウソをついて呼び出した事には違いないからその点少々心苦しいのだが、「恋する少年」である今のケンスケとしては、ナツミと何とか仲良くなりたいと言う気持ちが勝っていたとしか言いようがなかった。

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「ねえアスカ、どの映画にする?」

「うーん、どれがいいかなあ……」

 映画館にやって来たシンジとアスカは入口の所で考えていた。ここの映画館には7つの部屋があり、色々な映画を同時に上映している。アニメから恋愛物やアクション物に至るまで揃っていて選択の幅はそこそこある上、元々どうしても映画を見たくてやって来た二人ではないから、どれにするか迷うのも当然であった。

「……『青い鳥』……。ねえシンジ、これにしようよ」

「どんな映画かな」

「アメリカの恋愛物みたいよ」

「じゃ、そうしようか」

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「……マスター、あのお二人、ずっとうつむいたままですよ……」

と、ウェイトレスが主人に囁くや、

「こら、お客さんの事をコソコソ言うんじゃない」

「あ、はい。どうもすみません……」

 レイとカヲルは、「再会」で、ずっと俯いたまま、大して会話もせずにコーヒーを前にしていた。時折顔を上げて相手の顔をチラリと見たりしていると、たまに視線が合う事もある。そうなると妙に照れ臭く、慌ててコーヒーカップに手を伸ばしてしまう。そんな事を繰り返して何杯かコーヒーのお代わりをしている内に時間だけが経って行くのだった。

(……渚くん……。こうしているだけでやすらいだ気持ちになるわ……。でも、なんて言えばいいんだろ……)

(……綾波さん……。やっぱり温かさを感じさせてくれる……。でも、なんて言えばいいのかな……)

 時折こちらを見るウェイトレスの視線にも気付かないまま、レイとカヲルは、まるで「お見合いをしているウブな男女」のように向かい合っているだけだった。

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「あ、相田さん、この場所の景色いいですねえ♪ さっそくとりましょうよ」

「よしきた。アングルをどうするかだな。八雲ちゃん、やってみる?」

「はーい♪」

 芦ノ湖にやって来たケンスケとナツミはあちこち回りながら、「絵になる風景」を見つけては撮影に興じていた。

「……でもさあ、意外だったよ。八雲ちゃんがこんなに写真を気に入るなんてさ」

「だって、この前もそうでしたけど、とってもおもしろいですよお♪」

「へえ、そっかあ。……あ、そう言や、この前のハイキングの時の写真、見せてなかったね」

「あ、そうですねえ。今日はもってきてるんですかあ♪」

「たしかリュックの中に入れておいたはずだけど……。あ、これだこれだ」

「わあ♪ きれいにとれてるじゃないですかあ♪」

「ごめんね、見せるのが遅くなってさ」

「そんなあ、いいですよお♪ あれからお会いする機会がなかったんですからねえ♪」

「今日の写真はさ、帰りに現像して一緒に見ようか」

「え? いいんですかあ?♪」

「もちろんだよ♪」

「わーい、うれしいなあ♪」

「いやあ、八雲ちゃんに喜んでもらえて、俺もうれしいよ♪ ……あ、今日は二人だけだったけどさ、またみんなで来ようよな」

「はーい♪ そうですね♪」

 下心故、初めの内はぎこちなかったケンスケの態度も、写真を通じてナツミと打ち解けて行くに連れて段々自然になって行き、変な拘りがなくなって来た。ナツミは元々自然体だから、こうして見ると二人の様子は実に自然である。それがケンスケの心にも微妙な変化をもたらした。

(やっぱ、ウソはよくないよな。……これからは堂々とみんなに言ってから誘おう……)

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「……ごめんね綾波さん……。なんだか退屈させちゃったみたいで……」

「ううん、そんなことないわよ……」

 カヲルとレイは特に目的があるでもなく街を歩いていた。幾らお代わりをしているとは言っても、流石に長時間喫茶店で向き合っているだけと言うのは店に対しても少々きまりが悪い。それでとにかく外には出たのだが、特に行く所もなくブラブラしていたのである。

「そうだ。この街には植物園あるかな……」

「ええ、あるわ……」

「じゃ、よかったら行ってみない?」

「ええ、……はい」

「バスで行ける?」

「うん、行けるはずよ。じゃ、ターミナルに行きましょうか」

「そうだね」

 二人はバスターミナルに向かって歩き出した。

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 さてこちらは映画館のシンジとアスカ。

 どんな映画か知らないまま入った二人だったが、全編を通じて流れるやや哀調を帯びたBGMと、中々面白い演出に引き込まれて、二人ともいつしかスクリーンに没頭していた。

「…………」
「…………」

 その映画は高校生の男女の物語であった。

 二人は幼なじみなのだが、男の子はやや引っ込み思案、女の子はやや勝気で、昔からお互いを良く知っているだけに、本当は好き同士なのにどうしてもそれを素直に表に出せない、そんなこんなですれ違いを繰り返しながら、それぞれにガールフレンドもボーイフレンドも出来るのだが、どうも上手く行かなくてすぐに別れてしまう、ある時、二人は大きなトラブルに巻き込まれてピンチに陥る、しかし、何とか力を合わせてそれを脱した時、本当に大切なのはお互いだった事に二人とも気付く、と言う、何ともありきたりのストーリーなのだが、演出がなかなか上手いためか、結構「見せる」映画になっていた。

 映画がラストに近付いてきた頃には、シンジもアスカも自分の心の高ぶりを無視する事は出来なくなっていた。そんな時、ストーリーがクライマックスを迎え、ラブシーンが始まってしまった。

「!!……」
「!!……」

 裸でベッドに横たわった二人、唇が重なり、舌が絡まる、男の子の手が女の子の胸をまさぐり、女の子が物憂げな表情で甘い吐息を漏らす……。

「………;」
「………;」

 高校生が主人公であるため、それほど激しいラブシーンではなかったのだが、その時のシンジとアスカにはかなり刺激的だった。思わずシンジは隣に座っているアスカの手をそっと握った。

「!………」

 少し驚きながらも、アスカもシンジの手をそっと握り返した。

「!………」

 お互いの手のぬくもりが伝わって来る。心臓の鼓動は高鳴り、顔が火照る。こんな気持ちは今まで感じた事がなかった。

「…………」
「…………」

 そのまま二人は映画が終わるまでずっとお互いの手を取り合っていた。

 +  +  +  +  +

 映画が終わって出て来たシンジとアスカは少しぼおっとしていた。二人とも頭の中にはさっき見た映画のラブシーンが駆け巡っている。

「……ねえシンジ、なんだかちょっとつかれちゃった。……かえろうか……」

「うん、そうだね。……帰ってゆっくりしようか」

 +  +  +  +  +

 さてこちらはケンスケとナツミ。

 芦ノ湖で散々写真を撮りまくった後、ファーストフード店で遅めの昼食を取って、さてこれからどうしようかと言った所である。

「……さてと、これからどうしようか。写真は結構撮ったし、お昼も食べたからねえ……」

「んーと、わたしは別にいいんですけど、あんまりおそくまでここにいるのもなんですしねえ。……とりあえずもどりましょうか?」

「そうだね。今14時過ぎかあ。今からだと帰って現像に出すのにちょうどいいかな。じゃ、とにかくもどろうか」

「はーい♪」

 本来なら「ナツミと二人だけの時間」をもっと過ごしたいと思っても不思議ではないのだが、この時のケンスケにはそんな拘りはなかった。二人で楽しく写真も撮ったし、あんまり無理しないでおこうと言う気持ちになっていた。

 +  +  +  +  +

 植物園にやって来たカヲルとレイは、芝生の中にある木陰のベンチに座ってぼんやりしていた。日本も気候が変わったため、植物園もカラフルな亜熱帯植物が中心であるのだが、この場所は樹木と芝生だけである。それだけに、派手さはないが、心が休まる場所であった。

「……のどかだね……」

「ええ、そうね……」

 この場所にあるのは緑とセミの声だけである。二人は何を話すと言う事もなく、「自然の声」に耳を傾けていた。

「…………」
「…………」

 ややあって、カヲルが口を開いた。

「ねえ、綾波さん……」

「はい?」

「……急にこんなこと言って、申し訳ないんだけど、これからも少しずつでいいから、……仲良くして、くれるかな……」

「えっ!? ……は、はい……」

 レイは驚いた。何をすると言う事もなかったが、今日半日カヲルと二人の時間を過ごしている内に、自分の心に今までなかったものが生まれて来た事を薄々自覚し始めていたからだ。シンジにも、サトシにも、無論ゲンドウにも感じた事のない感情である。

 ……この人といっしょにいると、心がやすらぐ……。

 それがレイの心に生まれた感情であった。

 そしてそれはカヲルも同様であった。レイと一緒に過ごした時間に生まれた心の温かさは今まで感じた事がないものだったのだ。

「……どうもありがとう……」

 カヲルはレイの手をそっと握った。

「!………」

 レイはまた少し驚いたが、カヲルの手を振り払う事はしなかった。少し俯き加減のまま、カヲルの手に彼女自身の手を委ねていた。

 +  +  +  +  +

 シンジとアスカはマンションに帰って来た。無論ミサトはまだ帰って来ていない。

「ねえシンジ、あたしなんかちょっと汗かいちゃった。わるいけどさ、シャワーあびてきていいかな」

「うん、あびて来てよ」

「じゃ、おさきにね」

 そう言うとアスカは自室に入ってタオルと着替えを取り、風呂場に行ってしまった。

「……とにかく、きがえておくかな……」

 何となくモヤモヤとした思いを抱えながら、シンジも自室に入って行った。

 +  +  +  +  +

 シンジが着替えてリビングに出て来てから少しすると、アスカが頭を拭きながら風呂場から出て来た。

「おさきにー」

「早かったね」

「うん、ざっとあびただけだから。……シンジもあびたら?」

「うん、そうするよ」

 +  +  +  +  +

 シンジが風呂場に行った後、アスカはリビングでぼおっと座っていた。

(……まだ15時かあ……。ミサト、きょうはおそいのかな……)

 その時アスカは、ミサトが遅くなってくれたらいいのに、と考えている自分に気付き、

(……あたし、なにかんがえてんだろ……)

 改めてほっと一息つくと、頭の中にさっき見た映画のラブシーンが浮かび上がって来る。

(……なによ、なにかんがえてんのよ。シンジをまってる、って、いうの……)

「……おまたせー」

 はっと気付いて振り返るとシンジが頭を拭きながらリビングに入って来た。アスカは無意識的に、

「べつにまってなんかいないわよ」

「えっ?! ご、ごめん。……でも、どうしたの……」

 ここに来て、アスカもはっと気付き、

「あれっ?! ……ごめんねシンジ、あたし、なに言ってんだろ。……ちょっとおかしいわ。どうしたのかな……」

 アスカは申し訳なさそうな顔でシンジを見た。シンジはキョトンとしている。

「疲れてんの?」

「うん、そうなのかな……。なんかあたまがぼおっとしちゃって。……熱でもあるのかな……」

「だいじょうぶ?」

 そう言いながらシンジは心配そうにアスカのそばにやって来た。

「どうなんだろ……」

 確かに顔は少々火照っているには違いない。アスカは自分の額に右手を当てた。

「……自分じゃわかんないわ。……シンジ、ちょっとみてよ」

「……そう、じゃ、ちょっとごめんね」

 そう言いながらシンジはアスカの額に右手を伸ばし、自分の額に左手を当てた。

「……うーん、別に熱はないと思うけど……」

「……そう、ありがと……」

 シンジが手を離した時、二人の視線が合い、アスカの訴えるような瞳の輝きがシンジの眼を射抜いた。

(えっ!……、アスカ……)

 シンジの脳裏にさっき見た映画のラブシーンが駆け巡った。考えまい考えまいとしていたのだが、アスカの瞳を見た途端、シンジは自分の中に湧き上がってくる強い感情を抑えられなくなり、思わずアスカの肩に手を置いた。

(えっ!……、シンジ……)

 アスカは一瞬はっとしたようだが、すぐにそっと眼を閉じてシンジに寄りかかって来た。シンジはそっとアスカを抱きしめた。

「…………」
「…………」

 数秒の間、二人は抱き合っていたが、なにしろまだ明るい昼間である。流石にリビングでそのまま抱き合うのは少々気が引けるのか、シンジはそっと体を離した。

「……ねえシンジ、……あたしたち、つきあってんのよね……」

「えっ? う、うん……」

「……だからさ、いままで何回か、キス……したのよね……」

「……うん……」

 アスカのこの言葉。そして訴えかけるような瞳。それが何を意味するのかシンジにも痛いほど良く判っていた。自分以上にその意味を良く判っているシンジの下半身も既にヒートアップしている。「最後の一線」での戸惑いはあるとは言うものの、その時のシンジは「欲望」が勝っていた。

「……ねえアスカ、ここはリビングだからさ、部屋に行こうよ……」

「シンジの部屋に行くの?」

「アスカの部屋でもいいけど、いやじゃない?」

「あたしの部屋がいいな……」

「うん。……じゃ……」

 シンジはアスカの肩を抱いて立ち上がった。アスカもシンジに寄り添ったまま立ち上がった。二人は体を寄せたままアスカの部屋に入って行った。

 +  +  +  +  +

 アスカの部屋に入った二人は、カーテンを閉め、ベッドに腰を降ろすと、抱き合って唇を重ねた。

「…………」
「…………」

 今の二人には舌を絡める事などには何のためらいもなかった。相手の舌の甘さが自分の舌に伝わって来る。

「…………」
「…………」

 暫くして二人は唇を離し、お互いの顔を見詰め合った。最早キスぐらいで満足出来ないのは明かである。しかし、そうは言うものの、流石に二人ともそれ以上まで踏み込む勇気はなかなか起きない。二人は暫く抱き合ったまま、これから先に起こるだろう事に対する期待と不安に思いを馳せていた。

「……ねえアスカ、……こわくない?……」

「……こわい、って? ……なにが?……」

「……こうやってさ、二人でこんなことしてるのが……」

「……ううん。……シンジはこわいの?……」

「……もし、自分がおさえられなくなって、これ以上のことやったりしたら、って、思うとさ、……ちょっとこわいんだ……」

「……そっか。……でも、ちょっとぐらいなら、あたしはいいよ……」

「えっ? いい、って?……」

「……これ以上のことになっても、って、こと……」

「えっ?!……」

 アスカの言葉にシンジは完全に自分を失った。頭の中では映画のシーンが自分達の姿とオーバーラップして、裸で抱き合う自分とアスカの姿が駆け巡っている。

「……アスカ……」

「……シンジ……」

 シンジは再びアスカを抱きしめて唇を重ねた。そしてそのままベッドに倒れ込んで行く。

「……………」
「……………」

 二人は無言で唇を合わせたままベッドに横になり、抱き合った。シンジの下半身は痛いほど膨張している。

(……あ、いけない……。アスカに当たっちゃう……)

 シンジは唇を離し、体をよじって下半身をアスカから遠ざけた。

「……どうしたの?……」

 顔のすぐ下で、薄目を開けているアスカの囁きがシンジの耳をくすぐる。

「えっ、……いやその……、僕の体がさ、アスカに当たりそうになっちゃってさ。……ごめんね……」

「……男の子って、みんなそうなんでしょ……」

「う、うん……。そうなんだけど……」

「……ねえシンジ、あたしの横にならんでさ、あたしをみてよ……」

「うん……」

 シンジは体勢を少し変え、仰向けになって眼を伏せているアスカの左側に並んでアスカの横顔を見た。やや物憂げな表情がとても美しい。

「……アスカ、……とってもきれいだよ……」

「……ほんと?……」

「うん、ほんとだよ……」

「……ねえシンジ、あんたさ、あたしのこと、しあわせにしてくれるって、言ったわよね……」

「……うん……」

「……じゃ、しあわせにしてよ、いま……」

「えっ? ……どうしたらいいの?……」

「……それはあんたがかんがえなさいよ……。どうしたらあたしがしあわせになれるか、さ………」

「……で、でも、どうしたら……」

「……じゃ、ひとつだけおしえたげる。……きもちよくして……」

「えっ?!……」

 シンジは迷っていた。なにしろこんな事は初めてであるし、どうしたら女の子が気持ち良くなるかなど全く判らない。その時ふと今日見た映画のシーンがまた頭に浮かんだ。

(……そうだ。……男の子が女の子の胸をやさしくなでてたんだ……)

 シンジは生唾を飲み込むと視線をアスカの胸にやった。カーテンを閉めているとは言うものの、薄明るい部屋の中、薄いTシャツ一枚の下でふくよかなアスカのバストが息遣いに合わせて微かに波打っている。更によく見るとバストの頂上では、可愛い乳首がツンとテントを張って自己主張しているではないか。

(ごくり……)

 シンジは再度生唾を飲み込むと、震える右手を恐る恐るアスカの胸に伸ばした。アスカもシンジの手の動きを下目遣いにちらりと見て、一層胸は高鳴っている。

(……アスカ……、行くよ……)

(……シンジ……、はやくきて……)

 シンジの手がまさにアスカの胸に触れようとした、まさにその時、

トゥルルル トゥルルル トゥルルル

 突然部屋の電話が鳴った。二人は慌ててベッドから飛び起きて顔を見合わせる。

トゥルルル トゥルルル トゥルルル

 二人は何が何だか判らなくなって一瞬放心していたが、やがてアスカがベッドから降りてそっと受話器を取った。

「……もしもし。…………!!! ……ちがいますっ!!」

「ガチャン!」

 怒りの表情でアスカが電話を切った。シンジはまたもや放心状態である。

「……どうしたの?」

「……ラーメン2つ、だってさ……」

「まちがい、なの……」

「そうよ……」

「あーあ……」
「あーあ……」

 二人は大きな溜息をつき、改めてお互いの顔を見た。その途端、何とも言えない笑いがこみ上げてきた。

「ぷっ、くくくくくくくくくくっ、うふふふふふふっ♪」

「あは、あはははははははははっ、あははははははっ♪」

「うふふふふふふふふふふふふふっ♪」
「あはははははははははははははっ♪」

 二人は心から笑った。涙を流す程笑った。いつしかシンジの下半身もすっかり収まっていた。

「うふふふっ、あーあ、けっきょくはこうなっちゃうのよねえ、うふふふっ」

「あははははっ、そうなんだよなあ、あははは」

 二人はどちらからともなく抱き合って笑い転げた。暫くしてシンジがそっと、

「……ねえアスカ、僕さ、もっと努力して、自分に責任が持てるようになったら、堂々とアスカに言うよ。……愛してる、アスカが欲しい、って……」

「へえー、シンジにしてはキザなこと言うじゃない♪ その言葉、わすれないでよ♪」

「うん。忘れないよ」

 シンジはアスカを抱きしめて唇を重ねた。二人の心に温かいものが流れていた。

 +  +  +  +  +

 植物園から帰って来たカヲルとレイは、「いつもの別れ道」の所にいた。特に何と言う事があった訳ではないが、それでも、初めて二人で手を取り合った事は、二人にとっては「大きな出来事」だった。

「綾波さん、きょうはどうもありがとう」

「うん、こちらこそ……」

「じゃ、明日からがんばろうね」

「はい」

 二人は微笑んで別れた。

 +  +  +  +  +

 芦ノ湖から帰って来たナツミとケンスケは駅前のファーストフード店の二階で世間話をしていた。無論、スピードプリントに出した写真を待っていたのである。

「……あ、もうそろそろ時間だな。取って来るからちょっと待っててね」

「はーい♪」

 +  +  +  +  +

「ほら、写真できてたよ」

「わあ♪ きれいに写ってるじゃないですかあ♪」

「いやあ、八雲ちゃんのウデは大したもんだよ。2回目でこんなきれいに撮れるなんてさ」

「なに言ってんですかあ♪ 相田さんが教えてくれたからでしょお♪」

「ま、そりゃそうだけど、センスがいいよ。八雲ちゃんは」

「そうなんですかあ♪ うれしいなあ♪……」

 天真爛漫に喜ぶナツミを見て、改めてケンスケは今日ついた「小さなウソ」を反省した。

(……うん、俺はやっぱりまちがってた。……これからはもっと正々堂々とやろう……)

 +  +  +  +  +

 さてこちらは滋賀県安土町の山寺である。

「冬月さん、タクシーが来ましたよ」

「はいどうも。……さて、行くか」

 住職夫人に言われた執事の冬月弘隆(コウゾウ改め)は立ち上がった。

 今日の昼前に「日本福祉推進財団」の山野から電話があり、

「急で済まないが、打ち合わせをしたいので大津に来てくれないか」

との事だったのである。

 正月明けだが今日は然程忙しくもないので二つ返事で引き受けた。3時過ぎにタクシーを迎えにやるから、と言う事で資料を整えて待っていたのである。

「行き先は聞いてもらっていると思うが、大津の日本福祉推進財団まで頼む」

 門の所で待っていたタクシーに乗り込んだ冬月は運転手に行先を告げた。

「はいどうも」

 ドアが閉まってタクシーが走り出した。ふとルームミラーを見ると、運転手が何やら口にマスクのような物を当てている。

「どうしたね……。!!!……」

 突然冬月は気を失ってそのままシートに倒れ込んでしまった。

「ふふふ、流石にクロロホルムはよく効くぜ。……細工は流々仕上げを御覧じろ、だな」

 やや篭った声で呟いた運転手は無線機のマイクを手にした。この運転手はかつて「リリスの卵」を探していた男達の内の一人に相違なかった。

「ジジイの方は押さえた。これから合流地点まで運ぶ」

 +  +  +  +  +

「赤木さん、タクシーが来ましたよ!」

「はい、どうもご迷惑をおかけしますが後はよろしく」

「気を付けてね」

 こちらは奈良県桜井市のさる尼寺である。尼僧の赤木律照(リツコ改め)は、先刻急に「祖母が危篤」との連絡を受けて、大急ぎで帰省しようとしていた。

 無論、車の運転の得意な律照の事だから、すぐに車で新奈良駅まで行こうとしたのだが、先日来しばしば故障を繰り返していた車がまたもや故障してエンジンがかからなくなり、慌ててタクシーを呼んだのである。

「……新奈良駅までお願いします!」

「はい、どうも」

 タクシーはすぐに走り出した。

(おばあちゃん……)

 祖母の安否を案じながら律照は不安そうな表情で窓から外を見ていた。その時だった。

「!!!……」

 突然気を失った律照はシートに倒れ込んだ。

 運転手はルームミラーで後の律照の様子を一瞥すると、マスクを着けたまま無線機のマイクを手にした。無論この運転手も「リリスの卵」の時のメンバーの一人であった。

「尼さんを押さえた。合流地点に行く」

 続く



この物語はフィクションであり、登場する人物、団体は全て架空の物です。

BGM:'主よ、人の望みの喜びよ ' mixed by VIA MEDIA

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